今日二〇二〇年十一月十日、日本時間午後十二時七分に父は逝った。享年八十八歳。十日前の十月三〇日未明に父が施設から救急車で病院に運ばれた。その事を私は十一月三日に知った。入院診療計画書の内容は以下。
- 病状は誤嚥性肺炎、脱水症状、発熱、呼吸不全。
- 治療計画は呼吸薬とステロイドを点滴で投与、また水分も点滴で補う。
- 検査内容は採血、レントゲン、CTなどを適宜行う。
- 手術予定はなし。
- 推定入院期間は約一か月。
- 特別栄養管理の必要性はあり。
- その他は、看護、リハビリテーションの計画。発熱や呼吸困難などの症状による苦痛を緩和できるように支援。在宅復帰支援計画は現状ない。
医師からは、右肺のダメージと酷い脱水症状により衰弱しているため週末頃に亡くなるかもしれない、と説明を受けた。母と姉は病院に行ったが、父は酸素マスクを付けており、呼びかけにほぼ反応しない状態だった。
「父は目を開いたまま意識もほとんどなかったが、耳元で大きな声で呼びかけた時、微妙に動いたようだった。開いたままの目を閉じてやった」と母は言っていた。母は「これまで散々尽くしてきた、悔いは無く心の準備は出来ている。ここまでよく来れたので早く楽にしてやりたい」と病院の人に話していた。
「ここまでよく来れた」この言葉の重みと真意を本当に知っているのはこの世で私しかいない。
父の様態が急変し、母が病院から連絡を受けたのは十日午前十一時過ぎだった。母が病院に着いた時には父はすでに息を引き取っており、母が病室に入った後、医師が母の目の前で聴診器をあて死亡確認をした。父が息を引き取る瞬間に母が立ち会えたわけではないが、父は母に看取られて逝ったと言ってよい。肺炎が原因だが、体の機能が自然に衰えていった結果であり老衰に近かったと思う。
父は五男一女の末っ子として戦中に生まれ、少年の時に終戦を迎えた。戦中、戦後と社会が激変する中で若い時代を過ごした。その当時の多くの家庭は、多少の差こそあれ大抵は貧しかった。父が食パンに多少カビが生えていても食べていたことが思い出される。なぜ食べるのかと聞くと「子供の頃食べ物が無かったから、どうしてももったいなくて捨てることができない」と言っていた。
父が子供の頃、正月だけはおもちを好きなだけ食べることができて(その日の食事はその一回だけだった)、その時は本当に嬉しかったと言っていた。「兄弟競い合うように何十個も食べたものだ」と私が小学生の頃よく話していた。また、子供のころ田植えを手伝わされ、冷たい水の中で足が冷えて腹痛になってしまい、その後の食事をあまり食べることができなかったことが何度もあったと言う。他の兄弟は一人も腹痛を起こすことはなかったことから、いつも父は親から腹痛を起こしてせっかくの食事ができないなんて馬鹿な子だ、と言われていたと聞いたことがあった。
祖母は父が十代の時に他界したため、私は顔を知らない。祖母は喘息を持っていて体が弱かった。祖父は私が保育園くらいの時に会ったことがあるが顔は覚えていない。ただ、本家の庭にあった鯉の池の前で父と祖父が立ち話している光景がぼんやりと記憶に残っている。祖父が本家の一室で臨終する時には大人達が床を囲んでおり、私もその場にいた。幼少であった私は、その時の顔までは覚えていない。父は、病床にあった祖父に医者から止められてい酒を飲ませてやったという。「もう老い先がいくらもないのだからせめて好きな酒を飲ませてやりたかった」と言っていた。
そんな父もこの世にはもういない。父がまだ元気な頃だったが「自分の人生はいい人生だった、好きな物を食べることができ、好きなことをやることができた。子供達も無事に立派に育つことができたのだから」と言っていた。激動の昭和初期から平成、令和と底辺からここに至るまで生きた父に、お疲れ様、ゆっくり眠ってな、と静かに心で思う。
私の中で父の記憶は二〇十六年四月で止まっている。これから覚えている限りの父との記憶を書き記そうと思う。
二〇二〇年十一月十日