魔の給食

私の人生で小学二年というのは悪夢の日々だった。今、思い起こしても苦痛ばかり思い出されるのはこの時をおいて他には無い。

私は、肉が好きではなく特に脂身は全く食べることができなかった。その当時の小学校の教育は、給食を残すことに関して異常と思えるほど厳しかった。一九七〇年代は戦後から三〇年ほど経っていたが、食糧難だった戦後の記憶が強く残っていたからかもしれない。

毎月、一か月分の献立が配られており、その日の給食の内容を知る事ができた。私は、食べれない物が出る日は特に憂鬱で学校に行くことが本当に嫌だった。なぜなら、給食を残してはいけなかったからだった。

すべて食べることが出来ない時は、午後の授業になり他の生徒が勉強している中、私だけお盆がずっと机の上に置かれたまま放置された。教科書やノートを机の上に置くことも出来ず、授業など受けれるはずもなかった。その状態は、私の人生経験の中で最も屈辱的なものだった。

その日の授業が終わり、生徒達が教室の清掃を始めても私だけは変わらずお盆が机に置かれた状態で席に座らされたままだった。そして、他の生徒が全員下校した後、暗くなった教室で私ひとり、ほこりがかぶっているだろう給食を目の前にじっと座っているだけだった。

誰もいない教室で先生が私の前に座り何やら話していた。一口でも食べなさい、というような内容だった。小さいなりに私の自尊心はズタズタに引き裂かれていた。先生の言葉など耳に入らず一言もしゃべることなく黙っていた。その後、どうしてもだめなら仕方ない、と許してもらい静まり返った薄暗い廊下をひとり歩き、お盆を給食室に返却に行った。結局、夕方の随分遅い時間に帰宅した。

帰宅した私はとにかく不機嫌だった。ひとり布団で臥せって泣いたことは数えきれなかった。母は、なぜ私が荒れていたか理解できなかったに違いない。私はそのような日々を地獄のように感じていた。その地獄から助けてくれる人は誰もおらず、他の生徒は白い目で見ていたに違いななかった。私は、当然、誰も信じることが出来なくなっていたし、学校の先生は敵以外の何者でもなかった。

そのようなことは一度や二度ではなく、時には私以外にもひとり、ふたりいた。思い返すとあれは教育ではなくただの虐待だった。私は精神的に相当打ちのめされており、給食の時間は常に恐怖で、嫌いな献立の時は仮病を使って学校を休んだこともあった。日常的にそのような心理状態では勉強など手につくはずも無く、ただでさえ遅れ気味だった私の成績は一層下がっていった。今でも給食を用意する時間に流れていたクラシック音楽を聴くと嫌悪と苦痛が蘇ってくる。

このような経験から、私は食事をすることそのものが嫌いになった。特に多人数でレストランに行ったりする時は、全て食べられるだろうか、食べられない物が出て来やしないだろうか、と常に不安だった。

少なくとも小学生の間はずっとそのような心理が私を覆っており、緩和したのは高校生や大学生になる年齢だった。

一九七八年