母は弟を背中に負ぶって学校に行ったという。時にはその重さで後ろにひっくり返りそうにもなった。折角、学校に行くことができても避難訓練ばかりで勉強をあまりさせてもらえなかった。
「おしん」と言うドラマが一九八〇年代前半にあったが、母は「おしんなど自分の苦労に比べれば楽なものだ」とドラマを見ながら良く言っていた。母の幼少期は本当に過酷だったに違いない。
終戦を迎え、世の中の制度が代わりつつある過渡期には、それまでの小学校卒業後二年間の教育が、母の一つ前の学年から現在の義務教育制となり三年間となった。
終戦後の混乱期では、やはり母は思うように勉強できないことが多かった。祖父からは「近所の誰々ちゃんは学校に行かないで家のお手伝いをしていて感心だねえ」なんて嫌味のようによく言われたと今も恨み節を言う。
母は、本当に勉強が好きで学校の勉強がよく分かるし、問題もどんどん解けて楽しくて仕方がなく、もっと勉強したいといつも思っていた。また、勉強と同様に絵を描くことも大好きだった。
夜になると机もない薄明かりの中で、床に本を広げて勉強した。次の日の授業のためにせっかく準備をしても、朝になってから急に家の手伝いのため学校に行かせてもらえないことも頻繁にあったという。
世の中が激しく変化する中、時代に翻弄されていることに気が付くには若すぎる年齢だった。