書道教室では、あの子は上手い、と言われる一人になっていた。コンクールでは常に上位に入選しており、更に上の賞を取れるかどうかに気持ちは移っていた。
しかし、そこに至る過程は平坦ではなかったことも事実だった。私は低学年の頃、何をやってもできない子供だったが、負けん気の強さだけは人一倍だった。コンクールで上位を狙うため出来る限りの努力を続けた。
冬休みは二週間ほどあったが、主要な書初めコンクールの期日は大抵冬休み明けだった。そのため、冬休みは毎日朝から晩まで書き続ける日々だった。
膝立ちをしてちょうどいい高さの卓袱台で、来る日も来る日も書き続けた。それは楽しいという感覚ではなく、たった一枚の自分にとって完璧な作品を仕上げるため、山籠もりをしているという感じだった。
時には神経質になり過ぎていた時もあった。少し書いて思うような線が書けなかったら、その紙は捨てて、すぐ新しい紙で書く、ということを繰り返した時もあった。書初め用の紙は大きく値段も高かったため、親からしたらまだ書くことができる部分で練習してから新しい紙を使って欲しい、と思っていたに違いない。しかし、その時の私は、そのようなことが出来ないくらい追い詰められていたことも事実だった。卓袱台の周りには書きかけの紙が大量に散らかった状態になることがしばしばだった。
作品の出来上がる過程はいつも似たようなパターンを辿った。課題の文字を書き始めた頃は、すぐに上手くかけるのだが、満足できる程の出来ではなかった。その後、書き続けていくうちにどんどん文字のバランスが崩れ下手になっていく。そして、崩れてしまった後は、書いても書いても上手く書くことができず、その期間がとても長く続いた。上手く出来上がったと思う作品を部屋に掛けて、母と共に細かい箇所を繰り返し確認して眺め続けた。この部分はこうすべきだ、あそこの線はこれではだめだ、という具合に。そして、そのような日々を二週間近く続けた冬休みも終わる頃、これは、という一枚の作品が仕上がった。
そのような作品だったからこそ、コンクールに出品すれば常に入選できたのだと思う。今思えば、字を書くことを楽しめた方がよかったのだと思う。書道を初めてからどこかの時点で、楽しい、から苦行に変わっていってしまった。あの時の自分は地獄がら抜け出したいともがき苦しみ、皆を見返してやる、ということしか頭になかった。小学六年の頃には、教員も含めて学校一、字を書くのが上手いとまで言われていた。そのように言われたことは嬉しかったが、複雑な気持ちになる方が大きかった。それでもその特技は自分を守ってくれた一つであったことは間違いなく、書道を習わせてくれた両親には深く感謝している。
一九七〇年代後半